徳川家康とサクラソウ
桜草の歴史を語る記事にはよく徳川家康が登場します。それは鷹狩に出た家康が足元に咲く可憐な花に目を止め、悦に入った。それを見た供のものが殿のご機嫌伺にと持ち帰り栽培した。それがサクラソウ栽培の始まりったという話です。
話としては面白いのですが、江戸時代の記録には、まったく何も残っていません。そしてこの話を持ち出すのは、どうも桜草は「江戸の花」と強調するグループのような気がします。江戸の華、主流派はこちらとでも言いたいのでしょうか。
確かに荒川流域の自生地には、特出すべき桜草の世界がありました。ここから幾多の園芸種が生れ出てもいます。そこに家康を結び付ければまさに「江戸の華」になるでしょう。
しかし西方にも桜草栽培の歴史があり、秀吉が関係する茶会に桜草が生けられていたという記録もあります。これに対して「江戸派」の人は、京都周辺には桜草自生地がないから早馬でも仕立てて飛騨か岡山辺りから取り寄せたのだろうといっています。がそんなことはないでしょう。秀吉の茶会を支える津田宗及や利休の取り巻き連中の庭先にはすでに桜草が咲いていたと考える方が自然です。少なくも早馬を仕立てるほど特殊なものではなかったはずです。
それ以前の室町時代にも将軍、天皇、宮廷貴族などが桜草栽培した記録が日記などの形で残されています。「大乗院寺社雑事記]1478年に桜草を植栽した記述。記録は1450~1527まで現存しています。他に「言国卿記]1493年、三條西実隆日記、などがあります。詳細は竹岡泰通著、桜草栽培の歴史、創英社/三省堂書店などに書かれています。
家康の鷹狩りについて浪華さくらそう会の会長だった故山原茂氏が鋭い観察をしています。桜草が咲く頃の荒川の河原には鷹狩の対象になるような獲物はなく、みな北へ帰ってしまっているから慣行としても考えられないというのです。当時の鷹狩りは、ステイタスも高く、獲物の分配も殿からの賜りものとして貴重でしたから桜草のシーズンでの鷹狩はなかったと言えるでしょう。あったとしてもそれは、鷹匠が訓練のために行うものでした。
さらに山原氏は、家康と桜草を結びつけたのは、大正15年3月22日の都新聞記事が最初で、それより古いものはなく記述者の柴山政愛が下火になった桜草界を盛り上げるために作り上げた噓話だと断定しています。
確かに柴山政愛は、桜草界の重鎮で皇居に桜草を展示したりして、センセーショナルな活動をしています。しかし家康時代の荒川は現代の様相とはまったく違っていたはずで、桜草が咲いていたのかさえはっきりしません。 桜草を研究する上でもはっきり押さえておきたいところです。
国土交通省荒川上流河川事務所がまとめた荒川の歴史によりますと現在銚子から太平洋へ流れ込んでいる利根川は、当時東京湾に流れ込んでいたそうです。それを利根川水系と荒川水系を切り離す大改修工事を行い現在のながれに変革しました。これによって各河川の河原の様子は一変したはずです。この一大攪乱と桜草の増殖との因果関係は判りません。
荒川の川原は、縄文海進により長らく海底でした。それが現在の形態になったのは2000-1500年位まえと言われています。そこにどこからか流れ着いた桜草がどのように増殖したのか不明です。
家康の足元に咲いていたと断定してしまえば、そんな疑問も挟めません.。
現在桜草界は、東京の「さくらそう会」と大阪の「浪華さくらそう会」という二つの全国組織(ともに会員数百人)と地方団体(約30ほど)で活動していますが、ご多分に漏れず会員の高齢化で停滞気味です。
全国組織としてトップに立つ「さくらそう会」が日本さくらそう会ではなく「日本」を外しているのは、桜草が地域的に日本だけのものではなく朝鮮半島、中国、シベリア方面にまで自生しているため「日本桜草」という名称が成り立たないためです。しかし「さくらそう会」だけですと曖昧な気がします。 全国組織を目指すのであっても「東京さくらそう会」の方が納まりが良いですよね。もう一つの全国組織が「浪華さくらそう会」なのですから。
残念なことにこの二つの組織は、あまり仲良しではありません。激しく対立するのではありませんが、人的交流もあまりないようです。しかし対立の根源になる大きな問題もありません。ただ銘柄の呼称でそりが合わない程度です。仲良くやっていきたいものです。
東西で巨人阪神戦よろしく桜草の綱引きをしてもなんの意味もありません。
コメント